映画特撮監督の中野昭慶さんがお亡くなりになりました。
中野昭慶さんと言えば、火薬を多用・多量に使った爆破映像から「爆破の中野」の異名をうたう書籍もあるくらい、いかに美しい火炎を描くか工夫を重ねたことでも知られています。
中野昭慶さんが特撮監督になられた経緯や手がけた作品が気になりますね。
また、ゴジラを全く知らないで東宝の入社試験を受けたという噂は本当でしょうか?
そこで今回は『中野昭慶の経歴や手がけた作品は?ゴジラを知らずに東宝受験?』としてリサーチします。
・中野昭慶の経歴について
・中野昭慶の手がけた作品について
・ゴジラを知らずに東宝受験した噂について
中野昭慶の経歴や生い立ちは?
中野昭慶さんの経歴と共に生い立ちも振り返っていきましょう。
中野昭慶特技監督ご逝去の報に接し、
心よりお悔やみ申し上げます。数多くの作品をありがとうございました。
我々ファンとの交流を大切にしていただき
ありがとうございました。
本当に本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。
株式会社キャスト 社員一同 pic.twitter.com/MuAQRzBWNr
— 特撮大百科の株式会社キャスト (@kmff_n) July 5, 2022
幼少期から大学時代
中野昭慶さんは満州の出身で、父親は南満州鉄道の関連会社の国際運輸に勤務していた為、幼少の頃は裕福な生活を送っていたそうです。
そして、日本敗戦を機に飛び交う銃弾を潜り抜けて母親と共に日本に帰国することに。
親戚を頼って住み着いた愛媛県の新居浜の地で、小学校卒業までを過ごされています。
その時まだシベリアに抑留されていた父親に代わり、母親が今の住友化学という会社の厚生課に勤めていて、そこで映画の割引券を扱っていたそうです。
その関係で映画館と顔なじみになった中野昭慶さんは「頼む!頼む!」と、毎週6本映画を見てたそうで、これが映画との出会いのようですね。
その後、中学入学の際に京都府京都市に移り、1948年、月島中学校を卒業。
1955年に、京都市立日吉ヶ丘高等学校普通科を卒業と同時に、日本大学芸術学部映画学科脚本コースに入学しています。
中野昭慶さんは中学、高校ではアメリカンフットボールをやるスポーツマンタイプでしたが、大学で「映画を勉強したい」と思ったきっかけは、やはり新居浜の映画館で毎週6本映画を見てた経験がかなり影響しているようです。
大学卒業後から
1959年、中野昭慶さんは日本大学を卒業し、東宝へ入社します。
当初は助監督部で本多猪四郎さんの下につきましたが、人手不足の為『潜水艦イ-57降伏せ』で数日特撮助監督を務めました。
そして1962年(昭和37年)、円谷英二さんの指名を受けて東宝特殊撮影技術班の助監督となり、『キングコング対ゴジラ』より本格的に参加しています。
中野昭慶の手がけた作品は?
以降、中野昭慶さんは様々な作品を手掛けています。
【中野昭慶さんの手がけた作品】
・1962年 『キングコング対ゴジラ』
・1963年 『太平洋の鷲』からチーフ助監督に就任。
(円谷さんに請われ、「円谷特技プロダクション」でテレビ特撮番組『WOO』の企画に参加)
・1969年、クレージーキャッツ主演の『クレージーの大爆発』で特技監督デビュー。
・1971年、この年に東宝を退社した2代目特技監督の有川貞昌さんに代わって、東宝3代目の特技監督に就任し、東宝製作の特撮映画の特撮監督としてジャンル問わず活躍。
・『ゴジラシリーズ』…SF怪獣もの
・『日本沈没』…パニックもの
・『大日本帝国』…戦争もの
・『火の鳥』…ファンタジー
・1981年、この年からフリーの特技監督となり、東映の戦争三部作を演出。
・1984年、10年ぶりに復活したゴジラ映画、『ゴジラ』を演出。
・1985年、怪獣映画『プルガサリ 伝説の大怪獣』の特撮監督を務める。
・以後、『竹取物語』1987年まで映画の特技監督として活躍
・その後はテーマパーク・博覧会関係の映像作品を多数手がけている。
中野昭慶はゴジラを知らずに東宝受験した?
中野昭慶さんは東宝の入社試験を受ける時、『ゴジラ』を知らなかったそうです。
『ゴジラ』は1954年に公開されていて既に知られた映画だった為、おそらく東宝を受験する人は『ゴジラ』に魅せられた人も多かったのではないかと思われます。
そんな中、何も知らずに受験した中野昭慶さんは入社試験の面接で「キミはゴジラのことをどう思う?」と聞かれて、素直に「ゴジラって何のことですか?」って答えています。
面接官に「キミはゴジラも知らないのにここに来たのか!」と言われ、「この面接はもうこりゃ駄目だな」と思ったそうですよ。
ところがプロデューサーの藤本真澄さんが、「キミは面白い奴っちゃな。だいたい映画を勉強してきました何て言う、青臭い奴に限って役に立たない。なまじ中途半端に勉強しているから、本当の映画のことを知らないんだよ」と、『ゴジラ』を知らなかったことが功を奏して採用されたと言っても過言ではないのではないでしょうか。
なので、中野昭慶さんは東宝に入社した頃は特撮には全然興味が無かったそうですが、1962年に円谷英二さんからの指名で受けた『妖星ゴラス』の仕事ぶりが良かったのか中野昭慶さんは再指名されています。
そのことについて中野昭慶さんは「『キングコング対ゴジラ』でも、円谷英二さんからお声がかかっちゃった…」と言っていますので、不本意だったのかもしれませんね。
しかし、「どうせ特撮映画を担当するのなら映画のメカニズムを可能な限り習得して、将来のために勉強してやろう」と思い直したことで、その後の中野昭慶さんの道へと繋がて行くことになったようです。
『ゴジラ』の存在も知らずに東宝へ入社した中野昭慶さんでしたが、その後その道を究める監督になったことを見ると、面接試験の時の藤本真澄プロデューサーの言葉通りになったと言えそうですね。
まとめ
今回は『中野昭慶の経歴や手がけた作品は?ゴジラを知らずに東宝受験?』としてご紹介しました。
中野昭慶さんは、小学生の頃に映画をよく観ていたことをきっかけに映画の道へ進まれました。
当初は『ゴジラ』の存在も知らずに、たまたま受けた東宝でしたが、そこで円谷英二さんに見初められたことで”特撮”の巨匠となりました。
中野昭慶さんが小学生の頃映画に夢中になったように、多くの人が中野昭慶さんが手がけた特撮ものの虜になったと思います。
多くの作品をありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。